「歌を教える仕事、ちょっといいなと思っていて」

「でも私なんかが、ボイストレーナーなんて」

そんなふうに話してくださる方に、ときどき出会います。

結論から言います。会社員を続けたまま、ボイストレーナーを始めることはできます。ただし「いきなり自分で生徒さんを集める」以外のルートを知っていれば、という条件付きで。

私は今、月に50本ほどレッスンをしています。でも最初から自分の教室があったわけではありませんし、音大を出てもいません。今日は、教え始めるまでに私が実際に通った道のりを、順番にお話ししますね。

そもそも、資格はいるんでしょうか

いりません。

ボイストレーナーには国家資格も、これがないと名乗れないという資格もないんです。明日から「ボイストレーナーです」と名乗ること自体は、できてしまいます。

民間の認定資格はいくつかあります。学ぶきっかけになりますし、自信の土台にもなるので、取ることに意味はあると私は思っています。でも、その資格を持っているかどうかで仕事が決まる、という構造にはなっていません。

だから「資格を取る、それから講師になる」という一本道で考えなくて大丈夫です。

とはいえ、これは気楽な話ばかりでもなくて。資格がいらないということは、何を身につければいいのかも誰も決めてくれない、ということなんですね。だから多くの方が「何から手をつければいいのか分からない」で止まってしまう。

その「何から」の中身を、これからお話しします。

「歌がうまければ教えられる」と思っていた頃の話

教え始めて1〜2年目のころ、いちばんつまずいたのは、発声の知識ではありませんでした。

体験レッスンで何をやればいいのか分からない。何回かけて、どんな順番でカリキュラムを組んでいけばいいのかも分からない。そこで止まったんです。

エクササイズは知っている。やり方も説明できる。でも、レッスンという時間の設計ができない。教えるって、そういうことだったのかと思いました。

そして、もう一つ。こちらのほうが根が深かったです。

自分が教わったとおりに教えてみて、それで改善する方と、しない方がいる。

エクササイズをやってもらっても、その声に「OK」を出していいのかどうか、見分けがつかない。今のは合格なのか、まだなのか。判断する基準を、私は持っていませんでした。

そして、うまくいかなかったときに別の案が出せない。これが特にこたえたのは——自分がスムーズにできてしまったことでした。

料理でいうと、目分量で作れてしまう料理のレシピを書くようなものです。自分は毎回おいしく作れる。でも人に渡すレシピには「適量」としか書けない。相手が「しょっぱくなりました」と言ってきても、どこをどう変えればいいのかが分からないんですね。自分が一度も失敗していないから、失敗の直し方を持っていないんです。

歌える人が、そのまま教えられるわけではない理由がここにあります。自分が苦労せずできたことほど、なぜできないのかが分からない。

逆に言えば、歌がうまいかどうかだけで決まる仕事ではないんですね。聴いて、考えて、伝えられることのほうが効いてきます。むしろ自分がさんざんつまずいた経験のある方のほうが、引き出しは多いくらいです。

ただ、自分の練習はもうしなくていい、という意味ではありません。教える人がいちばん長く付き合うのは、自分の声ですから。ここは並行して続けることになります。

私が今の講座を「うまくいかないときの代わりの一手」から組み立てているのは、このときの自分が欲しかったものだからです。

会社員のまま教え始める、4つのステップ

ここからが本題です。順番に踏めば、いきなり大きな決断をしなくても進めます。

①教えるための「見立て」を学ぶ

自分が歌えるようになるための練習と、人に教えるための学びは、少し種類が違います。

必要になるのは、発声のしくみ、目の前の声を観察すること、何が起きているか仮説を立てること、そこから練習を選ぶ判断軸、そして相手に伝わる言葉で説明すること。

ここで、正解を暗記してもあまり役に立ちません。声は人によって違うので、覚えた一つの方法が効かない相手が必ず出てきます。そのときに次の一手を選べるかどうか。学ぶ目的はそこにあります。

学ぶ手段は何でもかまいません。専門学校でも、講座でも、本でも。今は情報が手に入りやすくなったので、10年前よりずっと始めやすくなりました。

②まず、ひとりに教えてみる

学んだら、小さく試します。

友人でも、家族でも、同僚でもいいので、ひとり協力してもらってください。声を聴かせてもらう。どこを直したいか聞く。何が起きているか仮説を立てる。練習を提案してみる。変化があったか一緒に確かめる。そして振り返る。

この一周を、一度やってみることです。

たぶん、うまくいきません。それでいいんです。私も最初はぐだぐだでした。うまくいかない箇所が見えて初めて、次に何を学べばいいかが分かるので、ここは失敗しに行く時間だと思ってください。

週末に1回、1時間。会社員を続けたまま、ここまでは今月中にでもできます。

ひとつだけ、気をつけてほしいことがあります。声が痛い、かすれが続いている、という話が出たときは、こちらで原因を判断しないでください。耳鼻咽喉科に相談してみてくださいね、とお伝えする。それが正しい対応です。教える側に回ると、この線引きはずっとついて回ります。

③スクールで「数」を経験する

ここが、この記事でいちばんお伝えしたいところです。

教え始めた人の多くが、次に「自分で生徒さんを集めよう」とします。SNSを始めて、告知をして、待つ。でも、これがとても難しいんですね。

実績がまだない状態で、十分な人数を自力で集めるのは、正直に言ってかなり大変です。「週末だけで気軽に始められます」という話をよく見かけますが、集客の部分だけは気軽ではありません。ここを飛ばすと、教える経験を積む前に心が折れてしまいます。

だから私がおすすめしたいのは、ボイトレスクールや音楽教室で、業務委託の講師として教えさせてもらうことです。未経験から受け入れているところもあります。

スクールの集客力を借りて、いろいろな声、いろいろな悩み、いろいろな年代の方を、数多く担当させてもらう。遠回りに見えて、ここがいちばん濃い訓練の時間になります。

ひとつ、実際にやってみて分かった選び方のコツがあります。

どんなスクールで教えるかで、出会う生徒さんの層が変わります。私が担当したのはピアノなども扱う総合的な音楽スクールのボーカル講座で、来られるのはライトな層が多かったんです。40代くらいの、お稽古をひとつ増やす感覚で通ってくださる方。ボイトレ専門のスクールだと、目的がはっきりしている方の比率が上がります。

どちらがいいという話ではなくて、自分がどんな生徒さんを経験したいかで選べる、ということです。求人を見るときの参考にしてみてください。

私にとっていちばん大きかったのは、自分が困っていなかったことで困っている方に出会えたことでした。

自分がつまずいたところなら、どう抜けたかを話せます。でも、自分がすんなり通り過ぎた場所で止まっている方には、差し出せるものが何もない。さっきのレシピの話です。この穴は、自分と違うタイプの方に数多く会うことでしか埋まりません。

一人で集めていたら、たぶん自分と似た人ばかりが集まっていたと思います。

それから、これは書いておきたいのですが——スクールで教えるのは、生徒さんを連れて出るためではありません。

集客の仕組みも、教室も、信頼も、スクールが積み上げてきたものです。そこをお借りして自分の力をつけさせてもらうのだから、在籍している間はそのスクールの生徒さんとして誠実に向き合う。それが前提だと私は考えています。契約の内容もスクールごとに違いますので、始める前に必ず目を通しておいてください。

④自分でお客様を集める

数を経験していると、だんだん見えてくるものがあります。

自分はどんな生徒さんを得意としているのか。どんな悩みなら解きほぐせるのか。どんなレッスンを届けたいのか。

私の場合、それを教えてくれたのが③でした。あのとき出会った「お稽古をひとつ増やす感覚」で通ってくださる方たちが、結局そのまま、今の私の教室の中心になっています。

自分のお客様が誰なのかは、想像では出てこないんですね。経験からしか出てこない。

だから自己集客は、④なんです。

そしてここまで来たら、その先は選んでいいと思っています。スクールで教え続ける。スクールと個人レッスンの両方をやる。完全に独立する。自分の教室を持つ。どれかが正解ということはありません。

独立は、ゴールではなく選択肢のひとつです。

業務委託って、どんな働き方なんでしょう

ボイストレーナーの働き方でよく「会社員か、独立か」という分け方を見ますが、実態は少し違います。

スクールで教える場合も、契約は業務委託であることが多いんです。つまり「スクールから生徒さんを紹介してもらって教える」か「自分で生徒さんを集めて教える」か、という違いのほうが実感に近いと思います。

業務委託は雇用契約ではないので、勤務時間の考え方も、社会保険の扱いも、会社員とは違います。本業がある方は、勤め先の副業規定も確認しておいてください。ここは会社によってまったく違うので、私からは断言できないところです。

契約書は、面倒でも読んでおいたほうがいいです。特に、辞めたあとの活動について何か書かれていないか。この部分はスクールによって差があります。

収入の話も、少しだけ

正直にお話しすると、ネットに出ている年収の数字は、あまりあてになりません。

「相場は250万〜600万円」「業務委託は時給1,000〜2,000円」「フリーランスなら1レッスン5,000〜20,000円」。調べるといろいろ出てきますが、出典をたどるとスクールや専門学校が自分たちの生徒募集のために書いた記事であることが多く、幅もばらばらです。どれかが嘘というより、条件が違いすぎて比べられないんですね。

なので、金額の話はここではしません。かわりに、私が実感していることをひとつだけ。

これは「本業を辞めて食べていけるか」という問いより、「働き方のひとつとして成り立つか」という問いのほうが、今の時代に合っている気がしています。

副業や複業が当たり前になっていく中で、好きなことを仕事のひとつにする選択肢はたしかにあります。本業を持ったまま、週末に何人か教える。そういう続け方をしている人を、私はたくさん知っています。

その選択肢がある、ということだけ、お伝えしておきますね。

向いているかどうかは、どこで分かるか

よく聞かれるので、ひとつだけ。

歌の実力よりも、興味の向きだと思っています。

自分が気持ちよく歌えたときより、目の前の人の声が変わった瞬間のほうが嬉しい。そういう方は、たぶん向いています。逆に、今は自分が歌うことに集中したい時期だという方は、無理に教える側に回らなくて大丈夫です。

ちなみに私は、いまだに自分のレッスンも受けています。教える側になったら学び終わり、ということには全然ならなくて、むしろ増えました(笑)。

明日、何から始められるか

長くなったので、まとめます。

そのうえで、明日できることをひとつだけ。

誰かに「ちょっと歌ってみてもらえますか」とお願いして、声を聴かせてもらってください。そして「どこを直したいと思っていますか」と聞いてみてください。

答えを返さなくていいんです。聴いて、聞くだけ。それだけで、歌う側から教える側へ、視点が一度切り替わります。

その感覚が面白いと思えたなら、たぶんこの道は続きます。まずはそこから始めてみませんか。